恵太・みー太
   の
 姉妹日記

PART 1
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恵太 1968.7生まれ みー太 1981.6生まれ


13歳も離れていると、姉妹というよりは我子に近い。
家の事情で母親代わりにミルクも与えればオシメも換えた。
加えて夜泣きに悩まされて育児ノイローゼになりそうなこともあったし、授業参観・運動会・進路相談・学校からの呼び出し。反抗期には「縁切りだ。出て行け!」と憤慨して突き放した時のみー太の心胆寒からしむような目は今でもハッキリと覚えている。しかし幸いして家族の惻隠の情が姉妹の縁を繋いで今に至った。思えば一掬の涙せずして語られようか。そんなみー太も漸く社会人になり、家族のスネから離れる時期に来た。
こうした軌跡は人に語るには長いし、日記に書き残しても保管に自信がないし、時代の文化に乗ってホームページ化することに決めた。他人から見れば全く以て噴飯物なのだが、ある人物の「自己満足型記念日記」という言葉に翻弄されてギャラリーは無視して立ち上げることにした。






まだまだ親の保護下でぬくぬくと育っている。
日が射せば日傘をかけられて大切に育てられた乳母日傘の典型方だと
言っても過言ではない。大事にされるあまり、将来ひ弱な人間になることを
囁かれたものだが、全くその通りになった。有りのすさびに任せた日々を
送っていったのである。あまつさえ反抗期突入、説教をしようものなら
雲を霞と逃げ去っていく始末であった。子ゆえの闇とはよく言ったもので、
この時ばかりは迷いが生じて思慮分別をなくした。恵太28歳。





みー太、成人式を迎える。ついでに憚りながら恵太も並べてみる。
この日両親は二人に満艦飾に着飾らせてくれた。臨時カメラマンになった父親と浮きだつ母に衣紋を繕われながらの写真撮影。
共に20歳、まだまだ臈長けた女性に見えなくもない。





同い年でも顔つきが大分違う。みー太は忌諱に触れる事を恐れぬ眼差しを持っている。
易きにつく生活を送ると、のち世の辛酸を嘗める苦労が保証されるのであるが・・みー太には未だ経験なし。世故に長けるとは正にこの事ではないだろうか。それでも尾羽打ち枯らす前にと説教を試みるのだが、己が教祖だと言わんばかりに自説を固く守って動じない、曲げない、融通が利かない。母に言わせると恵太にも共通し、これは我家の伝統だそうだ。
従って、よんどころなし。





地獄の沙汰も金次第。みー太が鬼籍に入った時には閻魔様と手垢にまみれた取引をするのではなかろうか。閻魔帳に記された死亡年月日を捏造するのはけだし朝飯前だ。
霊験あらたかな行いなんぞする気持ちもなければ、神仏さえも説法開かれた途端にケツまくって舌を出すだろう。この小悪魔、死して後已む事を期待するのは百年河清を待つに等しい。
1981年6月19日、分娩室に高笑い響かせみー太誕生。写真はいみじき天使の寝顔に写っている。。





語るに落ちる罠に掛かったことはないだろうか。誰しもが経験しているはずである。
なかんずく幼児期は油紙に火がついたように多々益々弁ずであった。支離滅裂、枝葉末節だらけのお喋りで何をか言わんやと疲れてしまうのだが、両親は子供の口吻から洩れた本音を根気よく拾っては核心に触れていた。寧日を送る為の家族の交流術としては良かったのだが、後々「問うにも落ちず、語るも落ちず」の技術を身につけることになってしまった。今では話題を展開させるだけで大変な苦労である。





年寄りの子供や年の離れた兄弟はこましゃくれた子が多いと言う。
みー太も例外ではなかった。文目も分かぬ年の頃には、芸者を真似て褄を取って見せたり柳の細枝のようなたおやめを演じては顔にパッと紅葉を散らせていた。雪を欺くような白い肌を持っていたから尚更赤みが目立っていやが上にも抱きしめたくなったものだ。
残念ながら芸者姿の写真はないが、代わりに都てぶりする恵太と茶目っ気たっぷりのみー太。





緑の黒髪に鈴を張ったような目・・。親ばか・妹ばかであろうか?
しかし身内を褒めちぎって何が悪い。何の取り柄もなく一丁字をも識らぬみー太には身内が「花よ蝶よ」と褒めるべきだ。例え人の子でありながら七割はモノノケの顔をしていたとしても、私はいくらでも千三屋になろうぞ。それに誰にとっても期間限定のお土砂をかけられるほど本掛帰りしたときの若さに差が出てくるものだ。今のうちである。





香川+宮崎のハーフだ。もう一代さかのぼると岡山+鹿児島のクォーター。
両親は結婚と同時に土地を離れ、東京を鹿島立ちとした為に育ちは標準語圏内となった。
やんぬるかな当然にして正しい日本語は使われない。こうした我家の教えはいやしくも一家言の一つとなり、未だ信じて疑わぬ造語がいくつか残ってしまった。この年になっても奔流の勢いでまくしたてるときは、つい口にする事があんげな。こういうこつがお里が知れるゆうっちゃねー。最近はよ、あまつさえ関西弁も混じってまこちおよばんとよー。
なんとかしてつかぁさらんかのー。ワープロ打つのもかないまへんがな。





私が小学生の頃、クラスの男に「ダミアン」と命名された。
有難すぎて冥加に余る思いだ。そんなダミアンも人目を憚らず泣いた事がある。それはみー太が呱々の声を上げて間もなくやってきた。
祖母から隔世遺伝した喘息の発作が起きたのである。白目剥き痙攣を起こして旦夕迫った様子に、神は幼子の命にもイタズラするのかと眦を決して激しい怒りを感じた。両親も心どこかに逆さ別れを覚悟し、夜もすがら涙して喪家の狗になっていったのである。恵太13歳の冬、偶然にも数学の時間に突然嗚咽を放った。以来男どもは宋襄の仁を掛け、次第に「○○さん」と改め竹馬の友の縁を切っていったのは言うまでもない。





都内の私立中学校に進むのは反対だった。
それがバーやキャバクラがひしめく紅灯の巷に近い学校であれば尚更だ。
アダめいた色目を送る夜の錦とネオンに吸い寄せられる夜の蝶が舞う街を、祭り好きのみー太が興味を示さないわけがなかったのだ。かと言って、ここは進学校だし大げさに考えても杞憂だろうと少しは期待する。しかしこのウリ坊は早くも頭角を現し、夜な夜な杳として行方が知れぬようになっていったのである。当然であるが、すべからく学業は疎かになり、何度も学校から呼び出されては押っ取り刀で駆けつけた。
その度に膝を八重・九重に折って謝罪し、油がたぎるほどの怒りで体温上昇したのは言うまでもない。しかし当の本人は悪びれた素振りもなく悠々とエスカレーターに乗り、有難くも6年間通ってみせたのだ。そして保健体育に限っては優秀の成績を納め、「う〜ん、うべなるかな♪」と訳の分らぬ自己満足のつぶやきでほくそ笑んだ。
↑缶に怒りの矛先を向ける恵太と、「人中が薬よ」とでも言いだけにプカリとやってみせるみー太。





杏林大学を「あんりんだいがく」と読む勇気はありますか。
最近母親の腰が立たなくなり病院に行ってみたら、あにはからんや椎間板ヘルニアの診断を下されてしまった。還暦を過ぎて桐一葉を感じる年であったのでギックリ腰だろうと高をくくっていたが、まさか老若男女問わないトレンディなヘルニアになろうとは・・・。
家業の都合上、母は長期入院が出来ない身である。必然的に「日帰り手術」を提供する病院が必要となった。そしてリサーチをみー太に一任し、日ならずして嬉しい一報を受けた。「あんりんだいがくでれーざーしゅじゅつやってるー。」
おかいこぐるみを案じてスイカをメロンと教育した事はあるが、「杏林」をわざわざ訓読みで教えた覚えはない。
「世の中知らない事があっても生きてはいける。」と、みー太は台詞を決める。しかしそれでは損をする事があるのだよ。このまま馬齢を重ねるのはやめておくれ。





うなぎいぬ。違った、ひょうたんなまずだ。この際どちらでも良い。
要は、掴みどころがないのだ。今の子の会話、行動、しぐさ、総てにおいてさっぱり要領を得ない。それが単に親兄弟の前でだけ馬脚を現しているのであれば、頑是無い子供だと笑って過ごせる。
さて、「今の子」みー太には時差がある。これは出産予定日の約束を破った時から始まっているから先天的なものだ。母体を蝕む獅子身中の虫になりつつあったみー太を無理矢理掻き出したのだから、もしかしたら不満も多かったろう。
しかしその復讐をするなら少しは意味を持って掛かってきてほしいと思う。待ち合わせにケタ外れの遅刻をした上に、姿を見つけるなり胸の前でバイバイしながら「おねいちゃ〜ん♪」と小走りで近づいてくるのは矛盾していないか?せめて三段跳びで「遅れてゴメンネ!」と、数メートル撥ね飛ばしてくれた方がまだ納得がいくというものだ。
今夜もどこぞで奇妙な姿を人様に晒しているのであろうか。いつしか妹の幼き頃の可愛い記憶が走馬灯の如く甦り、よよと紅涙を絞り袖を濡らす恵太であった。





某氏のお写真をちょっと無断拝借。
新撰組がNHKの梓に上らされたおかげで卑しくも日野が有名になってきた。
みー太が今も尚思いを馳せる土地である。
その心を知る私は、この写真を見て思いのほか感慨深くなった。あの頃が懐かしい。





みー太のひそみに倣ってビキニ姿。なんだか物悲しいものがある。
昔は鶯鳴かせたこともあったが、花の命は短くて今では来し方行く末の苦しきことのみ多かりき。隣の半玉に負けるのは悔しいが、みー太の色香漂わせる容色は、姉でも認めざるを得なかった。花のかんばせ艶やかに秋波送る目先には、鼻下長走る男が数知れずだろう。いつまでもおぼこい子供だと信じて疑わなかった妹が、長ずるに従っていつの間にか女に長けていたことに気がついた。
昔とった杵柄だが、ロッククライミングにひねもす憂き身をやつしていた時があった。全身運動の末、鍛えられた筋肉は年上のオバサンに限って羨ましがられたものだ。
しかしその声も筋肉も年齢を重ねる毎に無くなっていった。人知れず、鏡の中の己の姿に過去の栄光を探す姿は、ものの哀れこの上なしである。どんなに若さを止めようとも時間には勝てない事を思い知る今日この頃。「花の色はうつりにけりな・・」、世の男どもに忘れ去られる日はそう遠くない。

なーんて、努力もしていないから当然なんだけどね。だって疲れるんだもん。





宝塚の男役に言われることが多い。鳳蘭は嬉しくない。
なんだかペンが滑らないのでヤケクソ写真だけ。
オカマの恵太、みー太姫。





仕事柄、時期によってはヤクザな時間を送ることがある。
体内時計が狂い、睡眠が上手く採れない夜が続く。元々睡眠障害というか、眠りが浅く不自然な音に風声鶴唳して目が覚める事も多い。あまつさえ暗闇には不安を感じる性質で、年中窓を開けて外界の音と光を取り入れて床に就く癖がついてしまった。時にはオールリピートで朝まで音楽を流し、音がスピーカーから壁に反射せず外に流れていく心地良さで安心感を得る。
経験上、五月の乾いた季節が一番良い事を知った。この時期の気温と湿度が音の伝達スピードを高めて透明感を増したように聴こえる。
さて枝葉末節したが、ここ何年かは体力温存の為、誘眠剤のお世話になっている。
みー太も別の意味で生活リズムが崩れ、時々ではあるが「分けてくれ」と頼まれる事がある。先日は私に剣突を食わされ、そよとの風のような声で「精神安定剤くれ」と言ってきた。23歳まで図太く猪突猛進してきて、今更薬に頼る事もないのは言を俟たないと思うのだが・・? いかがなものだろう。





機会あって香港に出掛けた。みー太と日程が重なったので現地集合することにしたが、当て事とふんどしは向こうから外れるので出発直前になっても連絡を取らなかった。唯一、ホテル名を雁の使いにして残してきただけである。国内の待ち合わせでもおぼつかず、海外では右往左往だろうと予想していた。が、後世畏るべし。何処から湧いてきたのかフロントに張り付いているみー太がいるではないか。なにやら私の名前を音吐朗々に繰り返し伝えているのが聞こえる。
他人の振りをしたかったが、このスットコドッコイを引き取らないと迷惑なので慌てて声を掛けた。みー太は私に気がつくなり随喜の涙さながらに抱擁してくる。ちょっと可哀想だったかなと、無謀な待ち合わせに後悔してしまう瞬間であった。
そして姉妹水入らずで香港の街を膝栗毛して楽しみ、等閑に付していた時間を一気呵成して仲を取り戻した。





2〜3日前、母が会食で魚介類を食したあと吐き気・下痢に見舞われたらしく、翌日「牡蠣にあたった」との一報が入り驚いた。恐れながら私も牡蠣あたりの経験者であるから状態がわかる。早速、応急処置を電話口で施すのだが、いまいち反応がなく暖簾に腕押しであった。なにやら別のことを訴えているようである。
やおら世間話の末、とうとうみー太への嘆きで口火を切り、懸河の弁恐ろしく掃射的に愚痴を捲くし立てた。なんだか耳朶に触れた思いで呆然とする。
さて話を掻い摘んで聞いてみると、相変わらずみー太は家に寄り付かず、その夜も杳として行方知らずだったという。還暦過ぎて桐一葉の不安を感じている母は、夜中ではあったがみー太に電話して身の回りの世話を乞いた。ところが待てど暮らせど宵待ち草。気息奄々のなか、遠くに聞こえてくるのはサイレンの音。そう、母の元に駆けつけてくれたのは救急車であった。その時の状況を「搦め手から攻められた思いであった」と母は言う。
腰だめな計らいの犠牲になった救急隊には早々とお帰り頂き、その後みー太と母が干戈を交えたのは言うまでもない。頑是無く「お姉ちゃんに言うよ」「お姉ちゃんに言えば良いじゃん」で締めくくられたらしく、翌日二人揃って私の携帯をうるさく鳴らした。齟齬を来たす言い分に、いつしか私は空返事になり、木曜日に締め切り迫る編曲に頭は飛んでいた。
BGM・・ブラームス ハンガリー舞曲第5番。





妹を恐怖に貶めたことがある。思い出すとヘソで茶が沸くほど可笑しい。

私は目に見えないものに恐怖を感じる。なかんずく「幽霊」だ。霊感はないのだが、妄想だけは人一倍強いので不安や恐怖への想像は端倪すべからず膨らむのである。これはみー太も同じであった。
丁度一年前、出張の帰りにゆくりなく実家に泊まった時のことである。夜中に友人を連れて帰宅したみー太は、私の存在を知らぬまま部屋でまどろんでいた。レンタルビデオを借りてきたらしく、映画音楽が高々と聴こえてくる。なにやらお喋りも意気軒昴に楽しそうだ。
そこに私が隣部屋から「コホン」と咳き込んでしまった。途端に二人の会話は途切れ、暫し天使が通った。少ししてドタバタと弁慶の立ち往生が伝わってくる。・・・面白すぎる。折角のビデオ鑑賞に掣肘を加えるつもりは毛頭ないが、正体バラスのも惜しくなり暫し聞き耳立てて様子を楽しむことにした。人を脅す側に立つと自分の恐怖は掻き消され、楽しさに一転するようだ。その後充実した一晩を過ごし、爽やかな朝を迎えて下に降りると、すでに二人は起きていて「お姉ちゃん、いたの?」と狐につままれた顔をした。
あぁ、遅かりし由良之介、母に一夜の出来事を説明するみー太の顔も見たかった・・。





試験前になると、決まってみー太が訪ねてきた。
直前でもどうにかなると己の矜持を信じて疑わないのだ。
こうなると頭ごなしに喝破するわけにもいかず、毀誉だの褒貶だのとアメと鞭で発破をかけた。
普段の悪行の様を心憎しいと思いながらも、清濁併せ呑む私はなんと度量の広いことか。
しかしみー太が信じる折角の能力は生かされることなく、姉が教科書とコピーしてきたノートとを照らし合わせてヤマを掛けるといった髀肉の嘆で終わった。結果は言うまでもない。言いたくない。
あー、今夜の仕事はちっとも進まない。長期戦、篭城を仕事を得意とする私が短気集中して仕上げること自体無理がある。

聖子ちゃんのドラマ見ちゃったしー、知り合いのホームページを練り歩いちゃったしー、友人と40分も電話しちゃったしー、締め切りの苦痛を姉妹日記に仕立てて書いちゃってるしー、iPod miniの件で盛り上がっちゃってるしー・・・気が焦るぜぃ。





恩師からメールが途絶えて一週間になる。
私が圭角のある冗談を送ってしまったからだ。グローバルな相手に日本の時事ギャグを使ってしまい、「しまった!」と気がついたのは送信ボタンを押した直後だった。
連送してくる写メールに、「エスカレートして捕まらないでくださいね」とつい返信してしまったのだ。田代芸人を連想したジョークのつもりだったが、日本を一年の半分以上離れている相手には通用しなかった。
指揮の傍らカメラにも頭角をあらわし、雑誌などで取上げられるほどの達人相手には別の意味でも失礼極まりない発言だったろう。謝罪の言葉が頭の中で列を組み、優先順位を待っているかのような時間を暫し送った。思案六法の末、とにかくすぐにでも電話して膝を折ろうとダイヤルを押すが、指が止まる。そしてそのまま一週間が経ってしまった。その間、夢に見るまでには至らないが、後悔の念が走馬灯のように頭を走り、また携帯に手を伸ばしてはまた手が止まるといった事を繰り返していた。
とかくクラシックの世界は礼儀を重んじるので矩を越えた発言は許されない。仕事上の立場に甘んじて、すっかり礼儀が抜けていた事に大いに反省した。己の至らなさに病むあまり鬱病になりかけた矢先、意外にも先生から「反省してる?」とメールが来た。 してます!してます!ごめんなさい! 
謝罪の一言を送れなかった事を伝えると「貴方の性格、よぉく知ってる」と寸鉄食らってしまった。

先生、ごめんなさい。





恵太・みー太、またまた等閑に付す。
メールのやり取りが殆どだが、それも最近は少なくなっている。気になってみー太の居る時間帯を狙って部屋を覗くのだが、百鬼夜行の暗闇の中に爆睡している姿しか見ない。最近の環境の変化に気になるが、ここは少し浩然の気を養うつもりで放っておこう・・。
メールという情報交換の手段が蔓延してから、すっかり他人との直接的な交流が少なくなった。一見して表面的には緊密な関係を保っているように見えるが、顔や声の表情が見られない分、相手への思いやりや気遣いが減っていく。また、言質を恐れて懇ろに対応しても逆に慇懃無礼になることもある。言葉の伝達とは非常に難しいのだ。
私自身、メールの利便さを習慣的に繰り返し、不即不離が習い性となってしまった。ゆえに音沙汰なくなってしまった友人が指折り数えるほどにいて、メールの一長一短を痛感している。しかし女の長話を思うと、どうしても電話や会いに出かける一歩が出ない。私も時代の申し子であろうか。
さて、みー太とは血の繋がった姉妹であるから縁が切れることはないだろうが、それにしてもNo newsは気になる・・・。



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Poduced by Keita